Jazz platz ジャズプラッツ

ジャズプラッツでライブを楽しみませんか

被災地の皆様に心からお見舞い申し上げます。
亡くなった方々、そのご家族に心底よりお悔やみ申し上げます。

私の家も揺れて、揺れ方が尋常ではないと感じましたが、その後のテレビの映像に釘付けになり、自分のことは忘れてしまいました。

それから一週間、テレビで一日中、津波の破壊力、瓦礫に化した町の映像が次々と流れるのを凝視しながら、こんな現実はあり得ないと脳の一部が否定して受け入れていないような奇妙な気持ちを味わっていました。

被災した人たちは、今生きていることを一番深く実感している人たちでしょう。
ただ生きているという極限の状態にあって、その寡黙さと潔さは崇高にさえ感じました。
九死に一生を得ても暖を取ることも、十分な食べ物を得ることもできない中で、
泣き喚く人はなく、恨み言や愚痴を言う人もいない。
マイクを向けられれば家族の安否を心配し、言葉少なに現状を語り、被災地外の人々に、元気ですから安心してくださいと呼びかけている。
跡形なく流された家のあたりに立ち、「ゼロから始めねばなりません」とつぶやいた男性は、憔悴というよりも、放心の底での覚悟を感じさせる落ち着きぶりに見えました。

東北の人たちは強い。
便利を当たり前のように享受し、それに慣れていた首都圏の私たちはどうでしょうか。
災害の初動で右往左往したのは、むしろ首都圏の私たちだったかもしれません。

原子力発電所の処理をする現地の皆様には頭が下がります。今もっとも危険を冒しているのはこの方々です。

あわてて日本を退去する外国人は好きにさせましょう。
私は広島出身です。
両親も祖父母もいわゆる「被爆者」でした。
私自身は疎開していたので被爆していませんが、原爆の過酷さを実際に見聞きして育ちました。同期生にも被爆した人はたくさんいます。

津波で瓦礫に化した町は被爆後の広島市の姿を思い起こさせました。
親しい友人は当時爆心地に住んでいて、爆風で倒れた仏壇の中にすっぽりはまって気を失い、無事救出されて、今も元気で日本画をかいています。
爆心地より少し離れていた母は家の中にいて命からがら郊外に徒歩で脱出し、78歳まで元気にくらしました。父は駐屯地にいましたが、コンクリートの壁に守られて死ぬことはありませんでした。84歳の最期まで、明治の男の泰然とした生き様を見せて、私に多くのことを教えてくれました。

今、日本の国民は広島と長崎の教訓を学んできたかどうか問われています。風評を流す不埒な人はどの国にもいます。でもその風評に迷わされたら、日本人は同胞の体験から何も学んでいなかったことになります。

私たちにとって今必要なことは平常心を保ち、乱れ飛ぶ情報を冷静に判断することではないでしょうか。正しい知識を常に学ぶ姿勢ではないでしょうか。

こんなことを考えながら過ごした一週間が過ぎ、ジャスプラッツの私の立場に返った時、今どうすべきか悩みました。そして

4月7日のライブは予定通り行うことにします。

「被災者は被災地で闘っている。ほかの人たちは日本の経済のために闘ってほしい」
「被災地の友人と連絡が取れ、かれらは音楽が聞きたい、といいました」
そのほか、被災地の人たちのインタビューの中で多かったのは「ありがとう」と「頑張ります」という言葉でした。

私たちが萎縮しているわけにはいきません。今出来ることをやっていきたいと思います。

固く縮こまった心を解放し、演奏に耳を傾けましょう。身近で小さな楽しみを普段どおりに得られることを感謝しつつ、英気をやしないましょう。被災地だけでなく、日本全体が立ち直っていくには長期の心構えが必要です。一人ひとりが出来ることをして、それに参加しなければなりません。

吉野弘志さんは「こんな時だからこそやりましょう」と言っています。ミュージシャンだからこそ、音楽の力を知っているのだと思います。

東電発表の計画停電表を睨んで計算したところ、第二グループの南大沢は4月7日には夜の停電はありません。これも音楽の女神の采配と思い、心をこめてライブの準備をいたします。





スポンサーサイト